「東福寺」の鮮やかな紅葉

ここでは、 「東福寺」の鮮やかな紅葉 に関する情報を紹介しています。
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(ビーオブエス企業理念の冒頭)
今日も話題は紅葉なのででこの色合いで

今日わざわざ紅葉を見に行った。
といっても実家の近くの「東福寺」であるが・・・
ある目的のあとで・・・
ここは25か寺の塔頭(たっちゅう)を有する大寺院でもある。

昨日の朝テレビのモーニングシューで生中継をしていたらしい。
私の姉も見ていたらしく「凄い人やったワ」
「もう全国中継なんかして欲しくない」といいたげ。

事務所のヘルパーも所用で伏見稲荷大社から
東福寺の最寄駅 京阪電車の「東福寺」を抜けるのに
1時間かかったとウンザリしていた。
直線数キロだが抜け道がない。

今日自身もこのことを実感した。

臨済宗大本山「東福寺」は子ども時代から私の中では凛としていた。
昭和40年代初めころの高校生の時代
私は京都市立○○高等学校に徒歩通学していた。

その時の通学路がまさに「東福寺」の
多くの塔頭を抜けての通学
であった。
3年間 朝は8時半までにはいつも東福寺と塔頭を通っていた。
子ども時代「きりりとひきしまっていてしかも勇ましくもあり
まさに“凛”とした荘厳なお寺だ」と感じていた。

そんな東福寺では紅葉の鮮やかさが脳裏にしみついている。
最近よく観光雑誌や旅ガイドで見るあの風景。

だがもとは桜の木が植わっていたらしいが
「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され
楓の木が植えられたとのことである。
仮に春であってもまた今のような晩秋でも現代人には楽しめる寺院である。

毎日通った臥雲橋から観る渓谷の紅葉の色と通天橋は絶景。

でも当時人影はほとんどなかった。
この時期でも私たちの同級生だけだったような気がする。
ときたま仲間と足を止め紅葉に見入っていても
カメラなど構える者など当然なし。

私たちはいつも「もっと沢山見に来たらええのに・・・」と云いあっていた。
その思いがその後20年くらい経過して脚光を浴びはじめ
ここ10年くらいは紅葉の時期には異常人気となってしまった。

以前ここは時代劇の撮影の場所でもあった。
この時期でもお構いなしに撮影していたのを思い出す。
特に臥雲橋の直ぐ近くの霊雲院などは
撮影の度に門の表札?が替わっていたのを覚えている。
それだけ観光客も少なかったいやいなかったのだろう。



折角だからちょっと「東福寺」のお勉強。

嘉禎2年(1236年)九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は
この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を
安置する大寺院を建立することを発願し
寺名は奈良の東大寺・興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。

九条道家は開山(初代住職)として
当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾弁円(えんにべんねん)を迎えた。

25か寺もの塔頭(たっちゅう、山内寺院)があり
雪舟庭園や筆供養で有名な寺院や重要文化財の不動明王を持つお寺など・・・

また東福寺内部には建造物やその他にも国宝や無数の重文もある。
国宝山門は私の子ども時代は入れたが今は下から見上げるだけ。
重文「東司」とは禅宗式の便所で通称百雪隠(せっちん)と云う。
禅僧は用便も修行でありトイレに行くにも厳しい作法が定められていたらしい。



そんな懐かしい東福寺も往年この賑わい
嬉しくもありまた衆目のところとなり若干の寂しさもある。

私が通っていたときは木立も比較的小さく
赤の色が木々によりひとつずつ違っており遠くから見ても
くっきりしていたが
約40年余り経てばそれぞれが大きくなり
遠くから見ると鮮やかな紅葉には違いないが
なにかぼんやり映る気がしてならない。

女房殿と結婚前ここに写真を写しに来たことがある。
というかデートをした。
27〜8年も前のことである。
当時の色づきのほうが鮮やかだったと写真が物語っている。

姉は私が通学したこの道を毎日通っている。
おふくろが日赤病院に入院したため。
この紅葉が終わる頃には通わなくて良いようになって欲しいと願う。

塩谷さんは
今日も無事仕事を終えました。
明日も元気です。
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