阪神淡路大震災12年目

ここでは、阪神淡路大震災12年目 に関する情報を紹介しています。
プロデッセとは
PROfessional DEaler of SErvice」
(「人にやさしい」サービスを提供できる専門家集団として・・・)
という意味合いの造語ですが、
単純に 「プロでっせ!」 と呼んでもらっても、なんら問題はなし。
プロフェッショナル【professional】 ディーラー【dealer】 サービス【service】
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単純に 「プロでっせ!」 と呼んでもらっても、なんら問題はなし。
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1995年1月17日午前5時46分
6434人の尊い命を一瞬に奪い去った
その日を今でもよく覚えている。

3連休後の出勤日。
私はまだサラリーマン時代で連休後早めに行こうと
5時30分過ぎに起きて着替えをし
「ちょっと早いけど行くわ」そう云って
しばらくもたもたしていると
突然の激しい縦ゆれ
過去味わったことのないほどのゆれだった。

「大きい地震やったね。これから行ってくるわ。今日は遅いデ」
6時すぎくらいに家を出たと思う。
京都市内の朝はそのときもいつもと同じだった。
始発バスも走っていた。
止まっていたのは電車のみ。
西院駅で1時間くらい足止めをくらっていた。
普通ならそこまで待たないが
「地震のため線路の点検をしているので暫く待ちください」
のアナウンスでもう少しもう少しと待ち続けた。
会社にもそういう状況であることを知らそうとしても
電話は一切繋がらなかった。

しかたなく自宅に電話して
こういう事態になっていることを告げたとたん
「お父さん高速道路が潰れてる」
「神戸が大変やわ」
「人が道路で毛布被ってるし」
「街が壊れてる」
訳がよく分からずとにかく自宅に戻って
テレビ画面をみて愕然とした。
これがあの阪神淡路大震災の最初の映像であり
あの光景は画面を通してだが決して忘れないと思う。

これが当事者ともなればいかばかりか?
でもその時はまだはっきりと理解できたわけでもなかった。
取りあえず京都在住者は京都店に自然にほぼ全員集結した。
そこから本社に京都の様子などを報告していた。
電車が走り出すまで全員でテレビに釘付け。

「ひょっとしたら僅かでも仮説住宅の
注文が入るかもしれんなあ」と
話していたことを今もよく覚えている。

京阪電車だけ大阪に向け走っていたので
数人で大阪へ行ったがそこでも社員は皆
右往左往するばかり。
最初午前中は8名、次は23名(この数字は確か)の死亡報道。
その後倍々のペースで増えていった記憶がある。

ここから後は当時の報道がずっと伝えていたので
皆さん 今でもよく覚えておられるとおりです。

私たちはこの日から5月のゴールデンウイークまで
土・日も休みなく仮説住宅の建設で動き回った。
当時の私のいた会社はプレハブ建築物が主体の
請負やリースなどを行っていたトッブメーカー。

三宅島の噴火のための仮設住宅
奥尻島の津波による仮設住宅
震災後は雲仙普賢岳噴火による仮設住宅など
このノウハウは国内でも最大。
神戸、芦屋、宝塚、豊中、大阪、その他の各市で
オフィシャルには5万所帯の仮設住宅を役所発注で建てた。
私のいた会社はうち半分程度を建設したのではないか。
その他でも約一万戸があり、計6万所帯を超えていた。
その後(社)プレハブ建築協会が仮設住宅の供給体制を
毎年確認し、また各企業は建築できる数量を国に報告している。

私は最初から豊中市を担当しており
神戸の街に入ったのは震災後半年ほど経ってから。
友人や先輩がボランティアで日曜日などに
水などを持って神戸に入っていたのも知っていたが
私自身は豊中の庄内近郊で日々仮設住宅を造り
市役所で建築課の担当者と打合せの日々であった。

やっと同市などで一段落しかけた3ヶ月くらい経って
宝塚市の幼稚園の仮設園舎を担当したとき
同市も大変な被害を受けていたことも知った。

仕事をし、深く係わり、いく先々で見聞きする毎に
いかにこの震災が惨いことかと思い知った。

仮設住宅の住民説明会にも建設会社担当でよく立ち会った。
現地で世話をやかれていた自治会の方は
その後仮設住宅内で孤独死をされていたと伺った。
当時聞いたのは約100名余りが
仮設住宅内で孤独死をされたらしい。
この教訓をもとに
朝ラジオ体操などを行い
出席されなかった方を訪問するなど
各自治会が各々の取り組みなども実施されていた。
今でもその後建設された震災住宅でも
同じように100名くらいが孤独死をされている。

震災後・さらに数年後
さまざまな教訓が生かされることになった。
ボランティアの組織化・まとめ方などはこれ以降格段に前進した。
高齢者・障害者居住マッブの作成も
いち早く検討の対象となった。
倒壊後 家屋の下敷きのなかから
住民が力をあわせて救った地域住民は
総数3万人と云われる。
放っておいたらあとどのくらいの死者が増えただろうか?

しかし今でも障害者居住マッブはどの地域でも
現在まだほとんど整備されていない。
現地でも障害者が当時の経験から
自分たちで何とかしなければと不自由をおして
立ち上がったのは12年近く経ったごく最近である。

持ち家の障害者はひょっとして認知されているかも知れないが
賃貸の障害者などは
地域住民の間でもほんのご近所でなければ
資料すら整ってないのが現状。

でも福祉事務所は市役所内で
その所在地は知ろうと思えばすぐにできる。
そういうマップをまさかの時に準備する予定だったが
個人情報などの観点からか
たぶん止まったままになっているはずである。

動きづらいから・自分ひとりの力でできないから
その介助にヘルパーなどが入っている。
ヘルパー事務所などはその人の居住マップなどを持っている。
全ての機関の力を有効に利用すれば
こういうことなど些細なことである。

12年経っても出来ないのはなぜ?

私はこの震災を当時の仕事をとおして 
また未曾有の天災として絶対忘れません。


塩谷さんは
今日も無事仕事を終えました。
明日も元気です。
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